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【どうする家康】高天神城の戦いと塩買坂

執筆者の写真: Yuuki KoideYuuki Koide

こんにちは。大河ドラマ「どうする家康」の第26話「ぶらり富士遊覧」では天正9年(1581)第二次高天神城の戦いや、天正10年(1582)の天目山の戦いでの武田勝頼(眞栄田郷敦)の壮絶な最後が描かれました。第二次高天神城の戦いで武田勝頼は後詰をすることが出来ず、武田方の城将 岡部元信他688名が戦死しました。高天神城の篭城衆を見殺しにしたことで、武田勝頼は戦国大名としての評価を落とし、翌年武田氏は滅亡することになりました🙏


さて、今回は高天神城の戦いと塩買坂に関する内容です。


私達が住む菊川市には、相良(牧之原市)から秋葉山へ通じ、信濃へ抜ける「塩の道」の歴史が残っていますが、戦国時代には東西を結ぶ街道として利用されていました。


文明8年(1476)、駿河国守護 今川義忠が遠江国人 横地、勝間田両氏を討伐。その帰途の夜、塩買坂で残党に襲われ今川義忠は討死、今川義忠を弔うために子の今川氏親が建立した曹洞宗の寺院が正林寺です。正林寺の近くに、塩買坂古戦場の石碑があります。ゆうきまさみ先生の漫画「新九郎、奔る!」の8巻に塩買坂の戦いの様子が描かれています。


塩買坂は武田信玄・勝頼が遠江に侵攻した際にも利用し、武田陣場跡が伝承として残っています。どうする家康の時代考証を務める平山優先生の「新説 家康と三方原合戦: 生涯唯一の大敗を読み解く」には、元亀三年の武田信玄の遠江侵攻(西上作戦)の際に塩買坂を通り、高天神城を攻め、城主 小笠原氏助は10月21日までに武田氏に従属する意思を示したとの記載があります。


また、1736年に書かれた高天神軍記を元に加筆し昭和10年に発行された「高天神城戦史」にも塩買坂に関する記載があります。


・元亀二年二月

武田信玄 甲府から出兵。小山城を拠点にし、三月塩買坂に陣を張った。高天神城を落とすことが出来ず甲府に帰る。

・天正四年三月

武田勝頼 高天神城に兵糧を入れるために遠州に入る。牧野(諏訪原)城主 松平康親が塩買坂に兵をおいて、遮ろうとした。真田昌幸の一隊は塩買坂を通過した。


私が住んでいる旧小笠町からは高天神六砦の一つ、獅子ヶ鼻砦が見え、遠くには高天神城がある鶴扇山が見えます。旧小笠町から旧相良町に行く際は塩買坂周辺の道を利用することが多いです。今は長閑な田園風景が広がりますが、戦国時代の旧小笠町域には菊川入江が広がっていたようです。戦国時代には徳川・武田の激戦地の一部だったことを考えると、平和な現代に生まれてきて良かったと思います🙏




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