top of page
検索

義人 中条右近太夫 没後400年祭祀

執筆者の写真: Yuuki KoideYuuki Koide

更新日:2024年12月6日

こんにちは。菊川市嶺田の井宮神社様からのお知らせです。2024年11月23日(土)、井宮神社のご祭神「中条右近太夫」の没後400年祭祀を開催します👏


井宮神社では、江戸時代の義人 中条右近太夫 (ちゅうじょううこんだゆう) を祭神として祀っています。中条右近太夫は横須賀藩領の嶺田村に用水掘削を実現する為、幕府に直訴し、願いは取り上げられました。しかし、『直訴=越訴(おっそ)』は当時ご法度であり、直訴を取上げる代償に斬首の刑が科せられました。右近太夫は寛永3(1626)年1月23日に処刑されました。後に「嶺田用水」が完成し、嶺田地域の田畑を潤しました。

■中条右近太夫 没後400年祭祀

■日時:2024年11月23日(土)午前8時より

■場所:井宮神社 菊川市嶺田1番地1


<井宮神社と嶺田用水の由来>

昔、嶺田の地は水源に乏しく常に日照りの多い土地柄でした。慶長十二年(1607)、徳川家康が鷹狩りにやってきた時、飲み水が濁っていることを憐れみ、村のはるか北にある奈良渕の水を引くよう命令しました。けれども具体的な計画もたてられないまま、この話も立ち消えになってしまいました。

義人ともいうべき人がいました。名を中条右近太夫といい、嶺田の農民でありました。日頃から日照りの被害を深く嘆いている一人でした。ある日、志をたてて人々を日照りの苦しみから救うことを決意し、用水建設にとりくみはじめました。けれども、水源とする奈良渕の土地は他の領主が支配し、容易に出入りできません。右近太夫は日常から狂人のふりをし、凧をあげたり、大松にのぼったり、床下をはいまわったりしました。人々は右近太夫を「凧狂い」と呼び、狂人だと信じていました。右近太夫はこうすることによって、他の村に侵入して土地の高低や距離を測量しようとしたのでした。

苦心数年の後、右近太夫は用水建設の計画を領主の横須賀城主に何度も訴えましたが、その願いはとりあげてもらえません。右近太夫は家族に罪が及ぶことを避けるために妻や子を離縁して一人で江戸にのぼり、用水建設を直接幕府に訴えました。幕府は訴えが徳川家康とのゆかりが深いものであることを理由にこの宿願をききとどけました。けれども右近太夫は越訴の罪をまぬがれず、正月二三日に刑場の露と消えたと伝えられています。しかし、その子孫は永々として世をつぎ、国京の名を今に残しています。

人々はこの嶺田用水にかけた右近太夫の徳に感謝し長安寺の近くに祠をたて、「井の宮神社」と名づけておまつりし、命日をご大祭の日と定め、毎年忘れることなく今日に至りました。以後嶺田用水は脈々として絶えることなく流れつづけ、今もなお、地域の唯一の水源として活動しつづけています。




閲覧数:345回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page