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獅子ヶ鼻砦跡

Fort Shishigahana

About

獅子ヶ鼻砦について

天正2年(1574)、第一次高天神城の戦いで高天神城は武田勝頼によって落城しました。徳川家康は高天神城奪還の為、天正6年(1578)に横須賀城を築城し、高天神城を包囲するために高天神六砦 (小笠山砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村砦、三井山砦) と呼ばれる付城を築城しました。砦によって高天神城への補給路が断たれ、天正9年(1581)、第二次高天神城の戦いで高天神城は徳川家康によって落城しました。獅子ヶ鼻砦は現在の菊川市大石にあります。

名称:獅子ヶ鼻砦 (ししがはなとりで)

構造:丘山城

築城年:天正7年 (1579年)

築城主:徳川家康

遺構:曲輪、堀切

標高:44m

更新日: 2024/1/29

【小笠町誌 獅子ヶ鼻砦】

 小笠町大石にあって高天神城の東方約三・三キロ、半島状台地先端部(標高四四メートル)に位置している。獅子の頭の形に似ているところから、この名前が付けられたといわれているが、鹿ヶ鼻とも書かれている。

 三河物語に「然間、天正七年(一五七九)」己卯の春、田中へ御働有て、苗をなぎて引給ふ。同年高天神の取出、中村に二つ、同鹿鼻、同なふが坂に取出を被成ければ、小笠、大坂、中村に二つ、鹿鼻、なふが坂、以上六つ取出を取らせ給ふ」とある。又高天神記には天正八年六月前記六砦を築いたとの記載を見出すことができ、横須賀根元歴代名鑑には次の如くある。すなわち、「私云天正九年三月廿二日夜高天神城御攻落、城兵七百余御取被遊候、城の大将岡部横田は大久保七郎右衛門持口を切抜んとて岡部は討死し、横田は甲州へ退候、右の城攻被遊候節八ヶ所より向城有之候、岡崎に権現様御本陣を被居候、中村安威獅子ヶ鼻火ヶ嶺四ヶ所は五郎左衛門殿受持、能ヶ坂は本多豊後守持、風吹は石川日向守持、大坂村は酒井与四郎持諸方にて毎度手ひどく御合戦有之候、五郎左衛門殿は持口多御座候故、横須賀衆は別に骨折毎度手に合申候。」とあり獅子ヶ鼻は天正年間家康が高天神城を攻撃するために用いたことは確かである。しかし、それ以前に何等かの基盤があり、家康がその改築をしたとも考えられるがその証は不詳である。そして我々がみることのできる文書には砦を「被成けり」又は「取らせ給ふ」と表現されている。すなわち獅子ヶ鼻砦は天正七年(一五七九)春から八年七月までの間に築かれたものと考えられ、大須賀康高の持口であったとみられている。

 砦の北、東は急峻な崖で囲まれ、南は掘状の侵蝕谷に守られ、現在蓮池公園、保健センター裏手から登ることができる。その道を進むと尾根を切った幅六mの大きな堀切りに出る。

本郭はその実測図に示されているように、三段に高低がつけられている遺構が残っている。物見櫓の跡ではないかと考えられる。

主郭の東から南・西にかけて七メートルから三・六メートルの腰曲輪が構えられている。主郭から北西にかけて塁段状の曲輪をもち、約百メートル離れて小さな出曲輪(標高三三・三メートル)を配している。一方、主郭から東方の尾根に従い、前述の五〜六メートル幅の堀切りを通り、標高三二・一メートルの小曲輪を過ぎ、再び幅三・六メートルの堀切りに直面し、最後に獅子ヶ鼻の突端部(標高三一・三メートル)の出曲輪を思わせる部分に出る。

基本情報

Information

​所在地

静岡県菊川市大石 地内

電話番号

0537-73-1137 菊川市社会教育課文化振興係(埋蔵文化財センターどきどき)

開館日

駐車場

あり (蓮池公園)

料金

無料

Wikipedia

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​・獅子ヶ鼻砦 御城印 価格:300円 販売元:菊川市観光協会

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