こんにちは。大河ドラマ「どうする家康」では築山殿事件の最中ですが、築山殿と松平信康が死に追いやられた後、天正9年(1581)に第二次高天神城の戦いが起こります。大河ドラマ「おんな城主直虎」第47回の「決戦は高天神」では徳川家康(阿部サダヲ)が築山殿事件の悲劇を乗り越え、高天神城を降伏させようとするシーンが印象的でした。
私たちが住む菊川市域でも、第二次高天神城の戦いに関連する物悲しいエピソードがあります。第二次高天神城の戦いでは、徳川家康は高天神城奪還のため、城の周囲に高天神六砦を築き、高天神城包囲作戦を展開しました。この時、栗田刑部少輔吉信は高天神城の兵糧方をつとめ、その子長兄彦兵衛吉勝、次弟彦四郎次安、末弟五郎平某の3人も篭城していました。高天神城代 岡部元信は武田勝頼に後詰を要請しましたが、武田勝頼は援軍を送ることができませんでした。
天正9年3月城中の糧食もつき、落城も近まったため、栗田刑部は今生の思い出にと言い、徳川方へ使いを以て幸若舞を所望しました。与三太夫は城の近くまで進み出て、義経の衣川の高館の舞をまいました。城兵は塀に寄り添って涙にむせんだということです。
そして、天正9年3月22日午後10時、城将 岡部元信以下城兵は城から討って出て玉砕しました。この時、栗田刑部最愛の小姓、時田鶴千代もこの戦に加わり討ち死しました。高天神城落城の際、時田の討死を知った兵は、女性ではないかと疑いましたが、徳川家康が「眼を開いてみよ、女性ならば白眼、黒眼なれば男性」と言うのに従って確かめたところ、時田であることが分かったようです。
(常山紀談 湯浅元禎)
栗田刑部少輔吉信は落城の前日に切腹しましたが、彦兵衛吉勝、彦四郎次安、五郎平某の3兄弟は東の方に出て、駿河国富士の根方鸚鵡巣(おむす)まで、前高天神城主 小笠原信興のもとに助けを求めました。天正11年(1583)戦乱が治ると、長兄彦兵衛吉勝は家に帰り家職の神主を継ぎました。
その後、江戸時代中期の元文2年(1737)、平尾八幡宮宮司 栗田信安の長男として、城東郡(城飼郡)平尾村(現在の菊川市中内田)に生まれたのが栗田家第42代 栗田土満(くりたひじまろ)です。
(参考:栗田土満翁 横山富夫著、栗田土満翁傳 尾澤只一著、栗田土満略伝 堀川録朗著)
・画像:高天神社例大祭にて撮影
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