横地城跡
Yokochi Castle
横地城跡について
About
遠江国の有力国人領主 横地氏によって室町時代初期に築かれたと考えられる城です。牧之原台地の一支尾根が奥横地へ舌状に伸びており、その先端を含め東西約1.5kmの地域が横地城です。東の城・中の城・西の城が山の尾根に沿って並ぶ「一城別郭」の城です。土塁や堀切などの遺構が残っており、東の城北側下方に腰曲輪、東の城から北西に伸びる尾根に堀切が設けられています。中世山城の雰囲気を色濃く残しており、国指定史跡になっています。奥横地の伊平遺跡からは14〜15世紀を中心とした貿易陶磁や美濃瀬戸系陶器が出土し、横地氏有力庶流の屋敷跡と推定されています。
鎌倉時代の横地氏は保元の乱では源義朝に従っており、鎌倉幕府成立後は有力御家人として鎌倉を中心に活動していたことが『吾妻鏡』に散見されます。
保元元年(1156)、保元の乱で三代横地長宗は源義朝に従って戦いました。四代横地長重は源頼朝の挙兵に参陣。平氏追討に際し源義経に従い、鵯越・屋島・壇ノ浦で戦いました。
南北朝期には北朝方に属して遠江・信濃の南朝方の連絡を遮断するため、井伊・天野氏と戦い、天竜川流域・佐久間地方や犬居・二俣などの地を四十年にわたって支配しました。
室町時代には幕府奉公衆として仕えました。応仁文明の乱では、駿河守護 今川義忠の遠江侵攻に対し、横地・勝間田両氏は挙兵。文明8年 (1476)、横地・勝間田氏は遠江守護 斯波義良に従い、見付城を修復しましたが、今川義忠の兵500に敗れ戦死しました。その帰途、塩買坂(菊川市高橋)で横地・勝間田氏の残党に襲われ 今川義忠は戦死しました。
今川氏親は伯父の北条早雲と同盟を結び遠江の反今川勢力を掃討。横地氏の旧領の大半は今川家老松井・二俣両氏が領し、社山城主二俣昌長は主家再興に努力したが達成できなかったようです。(日本城郭大系)
なお、記録には残っていないようですが、高天神城の戦いでは小山城(吉田町)攻めにあたって横地城が再利用され、兵站基地や駐屯地として徳川軍が利用し、西の城に防御施設を付加したと推定されるようです。(参考:東海の名城を歩く静岡編 加藤理文)
・名称:横地城跡 (よこちじょうせき)
・構造:山城
・築城年:室町時代初期
・築城主:横地氏
・遺構:曲輪、堀、土塁、井戸
・標高:101m
・国指定遺跡 :菊川城館遺跡群 横地氏城館遺跡跡
・縄張図
更新日: 2024/2/`
【横地氏系図(日本城郭大系)】
・初代家永。横地氏始祖。横地太郎。
・二代頼兼。頼長とも言う。横地太郎。
・三代長宗。横地太郎。保元の乱(1156)のおり源義朝に従って戦った。
・四代長重。横地太郎。治承4年(1180)の源頼朝の挙兵に参陣し、平氏追討に際し、源義経に従い、鵯越・屋島・壇ノ浦に戦った。
・五代長直。横地太郎兵衛。源頼朝のため掛川に御所を造営し天竜川に浮き橋を架けた。鎌倉幕府御家人として毎年正月御弓始めの式を勤めた。
・六代師重。横地左衛門次郎。弓矢の名手。
・七代師長。横地太郎兵衛尉。弓矢の名手。弘安4年(1281)の蒙古襲来のおり京都禁裏を警衛した。
・八代長国。横地権之助太郎兵衛尉。元徳3年(元弘元、1331)の笠置城攻めに勲功があり、南北朝期には北朝方に属して遠江・信濃の南朝方の連絡を遮断するため、井伊・天野氏と戦い、天竜川流域・佐久間地方や犬居・二俣などの地を約四十年にわたり支配した。
・九代長則。横地太郎。足利尊氏に従い筑紫や西国で戦功があった。
・十代家長。横地太三郎。山城守。九州探題今川了俊(貞世)に属し九州各地を転戦、菊池氏との合戦で討死した。
・十一代長豊。横地太郎兵衛尉。遠江守。上杉禅秀の乱(1416-17)に功があった。
・十二代長泰。横地兵衛尉。永享の乱のおり、箱根水呑で永享11年(1439)に討死した。
・十三代長秀。横地太郎兵衛。遠江守。応仁元年(1467)、応仁の乱に際し御所を警固した。
・十四代秀国。横地兵藤。永正13年(1506)、遠江国潮見坂で討死した。
・十五代元国。横地弥三。永正2年(1505)、遠江国に生まれ、長じて武田信虎・晴信(信玄)に仕えた。藤丸と同一人とする説もある。
・十六代元次。横地渋谷介。武田信玄に仕えた。
・十七代義次。横地喜三郎・所左衛門尉。武田信玄・勝頼に仕え、のち徳川家康に召し出されて江戸幕臣となり、子孫は旗本として相承した。
横地城 千畳敷
基本情報
Information
所在地
〒439-0022 静岡県菊川市東横地字奥横地
電話番号
0537-73-1137 菊川市社会教育課文化振興係(埋蔵文化財センターどきどき)
開館日
駐車場
あり
料金
無料
公式URL