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  • 執筆者の写真Yuuki Koide

信州栗田城址(堀之内城)



こんにちは。今年の夏休みは信州旅行に行きましたが、長野駅の近くにある栗田城を見てきました。栗田城は信濃国人 栗田氏の城館で、栗田鶴寿(寛覚)が遠州高天神城で戦死したという内容が栗田城の現地看板に書いてありました。


私達が住む菊川市には、江戸時代の国学者 栗田土満の先祖にあたる栗田刑部少輔吉信が高天神城の兵糧方を勤め落城の前日に切腹したという話が伝わっています。同じ栗田なのでなにか関係があるかもしれませんね😊

また長野に行った際に調べてみようかと思います。




以下、栗田城址現地看板より

"栗田城址


地理的環境

 栗田城址は裾花川扇状地の先端地域に位置し、西高東低する中洲微高地の、比較的安定した地域にある。また交通の要衝でもあった。

 裾花川の支流が三方を囲む本地域は、しばしば裾花川の洪水に見舞われ、堆積を重ねてきた。この地域には裾花川支流の古川や計渇川などが、ゆるやかな段丘面を幾条にも分流し、一体に広がる水田の灌漑用水として重要な役割を果たすと同時に、本域の水濠を満たしていた。この付近には栗田・岡田・高田・吉田・太田などの地名が残っている。

 近年、栗田城址周辺200メートル以内、五カ所で発掘調査が実施された。「ふれあい会館」地域では、一メートル以上の地中から多数の遺物や遺構が確認され、小銅仏・土器皿・陶磁器・石臼・石鉢・青磁香炉・北栄銭・中国産土器などが出土している。


栗田城址(堀之内城)

 栗田氏歴代の居館跡で堀之内城とも呼ばれ、中世の平城で、地籍は長野市大字栗田字東番場にある。裾花川支流を利用し、二重の堀をめぐらした複郭式平城で、長野市では最大規模の居館跡の一つである。

 現在、主郭跡には西から北にめぐり幅十一メートル、高さ九メートル、長さ四十メートルほどの築堤が残されている。その位置関係から、土塁を含めた内郭範囲は百二十メートル四方前後の方形と思われる。北西隅には水内惣社日吉大神社本殿がある。

 文献に栗田城が登場するのは、南北朝時代の応安三年(建徳元年・一三七〇)信濃守護上杉朝房(ともふさ)が栗田城を攻めたのがはじまりであり、文明九年(一四七七)栗田氏は漆田城を攻め領域を広めている。

 明治期、栗田・北中地区には、東番場・西番場・舞台・源太窪・北河原・舎利田・部屋田の地名や古川堰・計渇堰・前堰・本城堰・太刀打場堰などの用水名が残されている。

 さかのぼること、治承四年(一一八〇)木曽義仲が結集した武士団に栗田氏が入っている。栗田城は栗田寛覚(寿永二年・一一八三年没)の子、「仲国」が築城居住してから戦国時代末期(一五九八)まで続いたといわれている。


栗田氏の活躍

 水戸家に伝わる「水戸栗田系図」、栗田寛覚の傍注に「栗田禅師 初テ信濃国栗田郷ニ居住ス。依テ本名村上ヲ止メテ在名栗田ト号ス、同国戸隠明神別当ヲ兼ヌ」とある。この寛覚が村上氏の分家で栗田氏の祖である。

 そもそも村上姓は七九九年に賜姓(しせい)され、一〇九四年に至って白河上皇に仕える殿上人(てんじょうびと)に列せられ、勅使の役を勤め院に仕えていたが、権力争いに敗れ父子兄弟が諸国に配流(はいる)された。そのうちの村上盛清が、信濃の更級郡村上郷に配流されたと考えられる。

 鎌倉時代には戸隠山顕光寺(現・戸隠神社)や善光寺の別当職に就くなどして、里栗田・山栗田に別れ善光寺平一帯に勢力を及ぼしていた。天文二十四年(一五五五)七月、第二回川中島合戦に、善光寺堂主栗田氏が「朝日の城」(現・朝日山)に入り武田方の支援を得て、ここを守り通した。この戦いの後栗田氏は武田の武将として、善光寺衆とともに甲府に移り、甲斐善光寺の別当となった。(呼称・里栗田)

 武田信玄没(一五七三)後、設楽(したら)ヶ原合戦(一五七五)で、織田・徳川連合軍に大敗した武田勝頼は、遠江(とおとうみ)の要である高天神城を城将岡部元信や栗田鶴寿(寛覚)らに託したが、天正九年(一五八一)徳川軍に敗れ、鶴寿は城と運命を共にした。子の永寿(国時)は別当職を受け継いだ。

 一方、在郷して上杉を頼った栗田氏は、豊臣秀吉の「上杉会津移封につき、申し付け状(慶長三年・一五九八)」により上杉景勝と共に会津へ移った。(呼称・山栗田)

 徳川家康は関ガ原の戦い(慶長五年・一六〇〇)に勝利した。大阪方に加担した上杉景勝は一年を経ずに、会津を没収され米沢へ移り栗田氏も同行した。


平成二十六年十二月 栗田城址を整備する会"



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