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静岡藩の歴史と月岡

  • 執筆者の写真: Yuuki Koide
    Yuuki Koide
  • 6月18日
  • 読了時間: 3分

こんにちは。先日、静岡市歴史博物館で開催された企画展「明治維新と静岡 徳川慶喜、家達と旧幕臣たち」を見てきました。静岡県の歴史好きな人はご存知かと思いますが、戊辰戦争の中、15代将軍徳川慶喜公は謹慎し、徳川家達公が徳川宗家を継いだことで、慶応4年8月、江戸から駿河に移された家達公に従って、多くの旧幕臣たちが駿府へ移住しました🗻


徳川家達を藩主として、駿河府中藩が成立しますが、明治2年6月、版籍奉還により家達公は知藩事になり、駿河府中藩から静岡藩に改められます。静岡藩は旧徳川幕府の優秀な人材を継承して様々な事業を展開し、渋沢栄一が設立した「商法会所」や藩校「静岡学問所」などがありました。


静岡藩の藩庁は駿府城で、藩士の人数は約12,368人。家老に平岡丹波、中老に浅野治郎八ら5人、準中老に大久保一翁、新政府との折衝を行う幹事役に勝海舟、山岡鉄舟が就任していました。現在の菊川市にゆかりがある静岡藩士としては、徳川慶喜公謹慎の際に身辺警護にあたった元精鋭隊隊士の関口隆吉と小田信樹、元彰義隊隊士の大谷内龍五郎の3名がおり、開墾方として、牧之原茶園の開墾に携わりました。関口隆吉は月岡、小田信樹は横地、大谷内龍五郎は沢水加(さばか)に住んだようです。


その後、明治4年7月の廃藩置県により静岡藩は廃止され、静岡県が誕生しました。旧幕臣から静岡藩士を経て、静岡県役人になった静岡県・浜松県出身者69人のうち、静岡県役人を継続する者と免職者が51名、新政府中央省庁の完了になった者が18名いたようです。徳川幕府の旧幕臣が初期静岡県の役人として地方行政を担っていたと知ると、驚きますね😲


なお、関口隆吉は明治4年に明治政府に出仕するので月岡に住んでいたのは約1年ですが、家族はしばらく月岡に住んでいたようで、明治9年に長男壮吉が月岡で生まれています。私の親戚の家に保管してある明治21年教育費授業料寄付金の内訳には、関口隆吉の弟 関口隆恕(元精鋭隊隊士)の名前が載ってます。また、内田小学校の卒業生名簿によると、明治20年〜24年の間に関口隆恕の子供と思われる人物が3名卒業しています。なお、関口隆吉の次男 新村出の末孫 新村恭さんの著書によると、関口家と月岡の交流は長く続いていたようで、昭和13年5月に関口隆吉の五十回法要を臨済寺で行った後に、月岡と池宮神社に赴いたようです。現在、関口家のご子孫は月岡に住んでませんが、地元の人が関口隆吉遺徳顕彰会として活動しています。


ちなみに、私の祖母の実家は菊川市月岡で、過去帳によると江戸時代に代々庄屋を務めたとあります。大身旗本井上氏の月岡陣屋は相良勤番組から開墾方に引き継がれていますが、祖母の実家は旗本陣屋のすぐ南なので、関口家と交流があったかな?と想像すると楽しいです😄


<参考資料>明治維新と静岡 徳川慶喜、家達と旧幕臣たち 大石学、静岡藩ヒストリー 樋口雄彦、広辞苑はなぜ生まれたか 新村恭



 
 
 

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