top of page
検索
  • 執筆者の写真Yuuki Koide

【遠州七不思議】桜ヶ池と応声教院

こんにちは。


先日、菊川歴史くらぶの勉強会で、遠州七不思議の一つ「桜ヶ池の竜神伝説」をテーマに現地散策を行いました🚶


遠州人なら誰でも知っている桜ヶ池の竜神伝説です🐲

御前崎市の桜ヶ池池宮神社では、比叡山の名僧 皇円阿闍利を供養するために、秋の彼岸の中日におひつ納めが行われています。おひつ納めは、県の無形民俗文化財に指定されています。


以下、池宮神社現地看板より

"「おひつ納めと皇円阿闍利(こうえんあじゃり)

皇円阿闍利は肥後の国(熊本県)に生まれ、幼くして比叡山で学問・仏法を修行され、後に日本の歴史書「扶桑略記」三十巻を記した。

皇円上人は悟りの境地を得るため天台の「止観」という方法に基づき、さまざまな難行・苦行を重ねられた。しかしながら、仏法の極め難きを知り、五十六億七千万年後に出現すると伝えられる弥勒菩薩に会うことを発願された。そして、その弥勒菩薩の教えにより人々を悩みから救うことが出来ると考え、嘉応元年(一、一六九年)六月十三日(九十六歳の時)身を龍と化し、この桜ヶ池に入定された。おひつ納めは、後に皇円上人の高弟、法然上人(浄土宗開祖)が桜ヶ池を訪れ、師である皇円龍神の安泰と五穀豊穣を祈り、赤飯をつめたおひつを神社に一個、桜ヶ池に一個納めたことに由来する。

以後、親鸞上人(浄土真宗開祖)、熊谷蓮生坊直美が継承し、以来八百数十年続いている奇祭である。

また、この桜ヶ池は信州(長野県)諏訪湖と底が続いているとも言い伝えられている。それはすべての命をはぐくむ水の神様を共に崇め、感謝するという古代人から現在の我々に至るまで心の底が通じていることを象徴している。御参拝の皆様も、慈悲深い皇円上人、そして大自然の恵に合掌して感謝いたしましょう。"


■池宮神社

■所在地 静岡県御前崎市佐倉5162

■御祭神 瀬織津姫(せおりつひめ)・事代主(ことしろぬし)・建御名方(たけみなかた)

■御由来 創祀は敏達天皇十三年(584)に瀬織津比詳命がご出現。社殿の造営がなされた。後、栄枯盛衰が激しく平安時代初めには衰退し、社殿は大破した。しかし平安時代中期一条天皇の長保三年(1001)社家の遠祖源朝臣信栄が社勢を再興。 室町時代に入ると駿河・遠江を領有する今川氏の崇敬を受けたが戦国末期に武田・徳川両氏の高天神城争奪の地となり、社殿をはじめ神宝、旧記、古文書の大部分を焼失。江戸時代に神官信盛が再び興し徳川家の崇敬を受け、明治維新に至るまで地頭の祈願所となっていた。享保十六年(1731)には正一位の神階宣示を受け、本殿は宝暦十年(1760)、拝殿は元文四年(1739)に、時の大宮司従四位下佐倉治部大輔源朝臣信幸が造営し、その名を池宮天王社とも称され現今に至る。

■文化財 

・徳川慶喜揮毫の池宮神社扁額(市指定)、本居宣長像自賛(市指定)



桜ヶ池池宮神社様で佐倉宮司のお話をお聞きした後に、菊川市中内田にある応声教院を見学しました。応声教院は桜ヶ池奥之院と呼ばれていますが、承安5年(1175)、浄土宗の開祖法然上人が恩師の皇園阿闍梨(こうえんあじゃり)をしのび、桜ヶ池を訪れた帰途に立ち寄って歯吹如来像を安置し、天台宗を浄土宗に天岳院を應聲教院に改名したと伝えられています。


また、静岡市常磐町の宝台院の総門が大正七年に応声教院に移築されました。宝台院総門の建築を担当した大工棟梁の甲良豊後守は藤堂高虎と同郷で、日光東照宮や江戸城の建築に関わったようです。宝台院誌に「大正四年不動堂落成後、境内正面の総門を菊川町御門應聲教院に譲り」という記載があり、大正七年に応声教院への門の移築が完了したようです。応声教院山門は国指定重要文化財です。


■応声教院

■所在地 静岡県菊川市中内田915

■建立 斉衡二年(855)

■宗派 浄土宗

■御由来 比叡山の法主慈覚大師が、文徳天皇の勅願所(天皇の願いが叶うようにお祈りするお寺)として建てられ、当初は天台宗「天岳院」と称していた。嘉応元年(1169)、比叡山の皇円阿闍利が桜ヶ池に竜神入定。皇円阿闍利の弟子、法然上人により天台宗と浄土宗に改め、天岳院を松風霊山 護国本寺 応声教院と改称された。実に法然上人仏門、御開宗の三年目、御年45歳の時でありました。円光(法然)大師念仏道場、桜ヶ池真跡(奥之院)。

■文化財 

・応声教院山門



最後に、菊川市の月岡と御前崎市の桜ヶ池に関するエピソードをご紹介します🤲


菊川市立内田小学校の近くに月岡という小さな地区がありますが、江戸時代には大身旗本 井上志摩守の月岡陣屋が月岡にありました。また、明治維新後に旧幕臣の一家が月岡陣屋跡に住んでいました。


桜ヶ池 池宮神社の宮司 佐倉豊麿の子佐倉(水野)久八郎は幕臣関口隆透の娘 琴と結婚し幕臣関口隆船となり、天保七年(1836)江戸本所相生町で関口隆吉が生まれました。徳川慶喜が大政奉還し謹慎すると、慶応四年(1868)、幕臣関口隆吉は上野大樹院御謹慎所勤を拝命し徳川慶喜の側近になりました。続いて精鋭隊頭取格を拝命し、山岡鉄舟らと共に徳川慶喜の警護を務めました。


明治二年(1869)、静岡藩が成立すると、徳川慶喜の身辺警護を務める旧幕臣 によって構成された精鋭隊はその任務を解かれ、静岡藩開墾方として牧之原に入植し、明治政府の士族授産事業の一つとして牧之原台地の茶園開拓に着手しました。


明治三年(1870)、関口隆吉は静岡藩金谷開墾方頭取並になり、城東郡月岡村(現在の菊川市月岡)にあった井上志摩守の月岡陣屋跡に関口隆吉の一家が移り住みました。月岡の関口隆吉邸から父親の実家池宮神社まで14kmほどなので、交流があったのかなと想像します🤔


菊川市では月岡の住民による遺徳顕彰会が関口隆吉の顕彰活動を行っており、2020年1月にはJR菊川駅前に関口隆吉の銅像が建立されました。月岡には関口隆吉の妻、綾さんのお墓があり、遺徳顕彰会の皆さんが現在も守っています🙏

菊川市加茂長池の洞月院には旧幕臣 関口隆吉の石碑があり、石碑の題字は勝海舟が揮毫しています。


なお、池宮神社拝殿には徳川慶喜の扁額があり、資料館には旧幕臣や国学者関係の資料のほか、菊川歴史くらぶ前会長すずき麗華さんの描いた絵も飾ってあります。


皆さんも遠州七不思議の竜神様について調べてみてください🐲




閲覧数:58回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page