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【NHK歴史探偵】高天神城

  • 執筆者の写真: Yuuki Koide
    Yuuki Koide
  • 11月13日
  • 読了時間: 5分

こんにちは😊


2025年11月5日(水)、NHK総合歴史探偵「武田勝頼」の中で高天神城 (掛川市) が登場しました。掛川市職員の戸塚和美氏、柴田慎平氏が出演され、難攻不落の堅城を誇った高天神城の構造について解説されました。高天神城と武田勝頼に関するエピソードが盛り沢山で、とても面白かったです。


↓NHK ONEで見逃し配信してますので、歴史好きな方はぜひご覧ください📺


さて、掛川市のお隣、菊川市にも高天神城に関する歴史があります。現在の掛川市南部(旧大東町、大須賀町)や菊川市域は、中世には城東郡(城飼郡)に含まれていました。


高天神城に関する郷土史本として、天正二年の戦いで戦死した本間八郎三郎氏清の後裔 本間清定が江戸時代に書いた「高天神記」を元に編纂した増田又右衛門先生・増田実先生の著書「高天神城戦史」や、藤田清五郎先生の著書「高天神の跡を尋ねて」があります。これらの本には菊川市域に関する話も出てきますが、地元人ならではのロマンがあって面白いと思います😊


以下に、菊川市域に残る高天神城関係の歴史や伝承についてまとめてみました。


井上半右衛門清秀甲冑(丸二井桁入紺糸当世具足)
井上半右衛門清秀甲冑(丸二井桁入紺糸当世具足)
  • 塩買坂

菊川市高橋にある「塩買坂」は、文明8年 (1476)、横地・勝間田氏の残党一揆に襲われ今川義忠が戦死した地です。元亀2年、天正4年に武田信玄や武田勝頼が陣を張ったと伝わる「武田陣場」が塩買坂の周辺にあります。


"元亀2年(1571)2月、武田信玄は2万の大軍を率いて甲斐の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を出発し、同月23日に田中城(藤枝市)に到着。同年3月5日、武田信玄は高天神城の巽(東南)の方角にある「塩買坂(しょうかいざか)」に陣を張る。しかし、高天神城が天嶮の要害に築かれた堅城であるのを見て、信玄は力攻めを諦めた。"

(参考:高天神の跡を尋ねて) 


"天正4年(1576)3月、徳川家康公は8000の兵を率いて遠州横須賀に着陣、武田勝頼は高天神城を8500の兵を率いて対陣。真田昌幸は信州勢一千余騎を率い、塩買坂に陣を張り、松平康親と対陣したが合戦に至らなかった。"

(参考:高天神の跡を尋ねて) 



※専門家による最新の説では、元亀3年に武田信玄が高天神城を攻め落とした可能性もあるようです。参考:「新説 家康と三方原合戦: 生涯唯一の大敗を読み解く 平山優」


  • 獅子ヶ鼻砦

天正6年から天正8年頃にかけて、徳川家康公は高天神城奪還のため、高天神城の周囲に「高天神六砦」(小笠山砦・三井山砦、獅子ヶ鼻砦・能ヶ坂砦・中村砦・火ヶ峯砦)を築き、高天神城包囲作戦を展開しました。菊川市域では菊川市大石の獅子ヶ鼻砦が高天神六砦の一つとして築城され、大須賀康高が守備を勤めました。



  • 横地城

天正6年3月、徳川家康公は掛川城に入り、田中城・小山城を攻撃しました。同月21日、家康公は大須賀康高に命じて横須賀城を築城。大須賀康高は馬伏塚城と横須賀城の城主を兼ねることになりました。この頃、横地城は徳川方の兵站基地や駐屯地として再利用された可能性があるようです。(参考:東海の名城を歩く静岡編 中井均・加藤理文)



  • 横地陣屋

高天神城の戦いで能ヶ坂砦を守備した本多豊後守康重の孫 本多忠利が三河岡崎藩主になり、長男 助久が大身旗本になり、6男 利長が横須賀藩主になりました。本多助久は城東郡を領し、その子孫が横地陣屋を置きました。


"寛永15年、将軍家光に拝謁する。正保2年5月に父忠利の遺領から4560石を賜り、6月に采地を城東郡に移される。正保3年采地に行くことを願い出て許される。宗家利長と共に久能山東照宮の普請を行う。寛文3年新居関所番になる。牛込の法正寺に葬る。妻は大河内久綱の女。"

(参考:寛政重修諸家譜)


  • 月岡陣屋

井上半右衛門清秀は、高天神城の戦いで大須賀康高に属し、横須賀城の防戦に従事しました。その長男 重成が大身旗本になり、3男 正就が横須賀藩主になりました。井上重成は城東郡を領し、その子孫が月岡陣屋を置きました。


"幼い頃に東照宮にお仕えし、後に中納言秀康に附属させられ、先手物頭を務めたが、その後病気により遠江國横須賀に住む。寛永二年に召し出されて大猷院殿にお仕え申し上げ、遠江國城東郡の内において采地三千石を賜る。丸山の浄心寺に葬る。妻は福岡太郎八某が女"

(参考:寛政重修諸家譜)


  • 小笠原春儀

菊川市河東の養徳院に高天神城主 小笠原春儀の位牌があります。近隣に小笠原春儀のものと思われる五輪塔と小笠原氏助の供養塔があります。高天神城観光ボランティアガイドさんと一緒に看板を設置させていただきました🙏


"小笠原春義 大永元年、高天神の城主 福島上総介政成が今川氏親に叛いた時、氏親の命を受けてこれを討つ。その勧賞として高天神城主になる。元亀3年5月14日没。城東郡小笠原庄河東村の養徳院に葬る。妻は今川上総介氏親の娘。"

(参考:寛政重修諸家譜)


  • 黒田九郎太夫義則

黒田氏は足利下野守義次が越前国の黒田に住居して姓を黒田に改めた。その子日向守義治は紀伊に居住し、その三男式部少輔義理は遠州に在って城飼郡を領し、その四男監物亮義重は平川村を領した。その子九郎太夫義則まで八代。義則は義得入道玄忠と共に籠城した。天正二年開城後、平川村に住し、子孫苗字帯刀を許され、旗本本多日向守の代官となり後裔現存している。(参考:高天神の跡を尋ねて) 



  • 栗田刑部少輔吉信

第二次高天神城の戦いでは、武田方の武将 栗田刑部少輔吉信は高天神城の兵糧方をつとめ、その子長兄彦兵衛吉勝、次弟彦四郎次安、末弟五郎平某の3人も篭城していました。

天正9年3月城中の糧食もつき、落城も近まったため、栗田刑部は今生の思い出にと言い、徳川方へ使いを以て幸若舞を所望しました。与三太夫は城の近くまで進み出て、義経の衣川の高館の舞をまいました。城兵は塀に寄り添って涙にむせんだということです。

そして、天正9年3月22日午後10時、城将 岡部元信以下城兵は城から討って出て玉砕しました。この時、栗田刑部最愛の小姓、時田鶴千代もこの戦に加わり討ち死しました。高天神城落城の際、時田の討死を知った兵は、女性ではないかと疑いましたが、徳川家康が「眼を開いてみよ、女性ならば白眼、黒眼なれば男性」と言うのに従って確かめたところ、時田であることが分かったようです。

(参考:栗田土満翁 横山富夫著、栗田土満翁傳 尾澤只一著、栗田土満略伝 堀川録朗著)


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