内田地区ふれあいフェスタ2024
菊川歴史くらぶについて
About Kikugawa Rekishi Club
"菊川市(きくがわし)"は静岡県西部に位置し、一級河川「菊川」の中流域に広がり、遠州と信州を結ぶ「塩の道」など、ふるくから南北交通の要所として栄えたまちです。地理的には、東側を牧之原台地、西側を小笠山に囲まれ、市の中心部から南に城東平野が広がっています。中世・近世は遠江国城東郡に属し、戦国時代には徳川氏、今川氏、武田氏の激戦地となり、江戸時代には周囲を掛川藩、横須賀藩、相良藩などの城下町に囲まれていました。明治初期には牧之原大茶園開拓の為に旧徳川幕臣が入植した地でもあります。2005年に旧菊川町と旧小笠町が合併し、菊川市が誕生しました。
"菊川歴史くらぶ"は、1960年に旧小笠町「歴史を探る会」として発足しました。市民が地域の歴史に対する認識を高め、史跡の保存や資料の流出を防ぎ、より高い郷土愛を育む事で、地域の子供たちへも郷土の歴史を伝えます。また、その子供達へと伝えていく事によって郷土の歴史が時代の流れに飲み込まれないよう 且つ、他市、他地域の皆さんが当市に来て頂きたいです。
菊川歴史くらぶ
橋本 哲夫
静岡県菊川市
FAX
関連団体
0537-73-2582
栗田土満翁顕彰会
会員数
63人 (令和4年現在)
名称
代表者
住所
ホームページ
旧石器・縄文・弥生時代の複合遺跡である三沢西原遺跡から旧石器時代の敲石(たたきいし)や石核、縄文時代の石匙・石錘・石鏃のほか後期の注口土器や壺が出土しています。
嶺田遺跡・白岩遺跡から弥生時代中期の標準土器が出土し、他に東原田遺跡などが知られています。
三角縁神獣鏡を出土した大塚古墳があり、舟久保古墳・大徳寺古墳・朝日神社古墳が残され、他に小円墳などが確認されています。後期には菊川流域の丘陵に横穴古墳が確認され、須恵器など多くの副葬品が報告されています。
宮ノ西遺跡から奈良時代の碗や木簡、平安時代の山茶碗などが出土しています。
鎌倉時代には鎌倉幕府の御家人(将軍に奉公する武士)として、内田氏と横地氏がこの地域を支配していました。横地氏は保元の乱では源義朝に従っており、鎌倉幕府成立後は有力御家人として鎌倉を中心に活動していたことが『吾妻鏡』に散見されます。
保元元年(1156)、保元の乱で三代横地長宗は源義朝に従って戦いました。四代横地長重は源頼朝の挙兵に参陣。平氏追討に際し源義経に従い、鵯越・屋島・壇ノ浦で戦いました。寿永3年(1184)、宇治川の戦いで源範頼・義経に破れた木曽義仲は近江の粟津まで敗走しました。内田家吉は木曽義仲に従っていた巴御前に戦いを挑みましたが、戦死しました。五代横地長直は鎌倉幕府御家人として毎年正月御弓始めの式を勤めました。承久3年(1221)に起きた承久の乱では鎌倉幕府が後鳥羽上皇に勝利し、内田氏は恩賞として石見国貞松名・豊田郷(同益田市)の地頭職を獲得し、移り住みました。八代横地長国は南北朝期には北朝方に属して遠江・信濃の南朝方の連絡を遮断するため、井伊・天野氏と戦い、天竜川流域・佐久間地方や犬居・二俣などの地を四十年にわたって支配しました。(横地氏系図)
現在、内田の高田大屋敷跡や横地城下遺跡群からは中世の陶磁器などが出土しています。
遠江国人領主 横地氏は幕府奉公衆として室町幕府に仕えました。応仁・文明の乱では、駿河守護 今川義忠の遠江侵攻に対し、横地・勝間田両氏は遠江守護 斯波義良に従い挙兵。文明7年 (1475)、狩野氏の館跡に城郭を構え挙兵しました。横地・勝間田両氏は小夜の中山で堀越陸奥守貞延 (遠江今川氏) を討ち取りました。文明8年 (1476)、今川義忠は横地城を攻め落とし、帰陣の途中、塩買坂で横地・勝間田氏の残党一揆に襲われ今川義忠は戦死しました。
今川義忠が戦死したことにより、今川氏内部で家督相続に関する争いが起こりました。龍王丸派 (今川氏親) の瀬名、関口、新野と、小鹿範満 (義忠の従兄弟) 派の三浦、朝比奈に家中が分かれ、龍王丸と北川殿は駿河を追われ、山西の長谷川正宜のもとに身を隠しました。北川殿は龍王丸を連れて丸子に住みました。10年後、小鹿範満が家督代行から退かないため、伊勢新九郎盛時 (北条早雲)が範満を討ち、龍王丸を家督につけました。
伯父の北条早雲の助けを借りた今川氏親が駿河統一を実現すると、永正10年(1513)に松井信薫を堤城主(菊川市下平川)とし、掛川城に朝比奈氏、高天神城に小笠原氏を置き、永正14年(1517)に遠江を平定しました。今川義忠の跡を継いだ今川氏親は父親が果たせなかった遠州を平定し、永正14年 (1517)、塩買坂に菩提寺(昌桂寺、のちの正林寺) を建立しました。
今川義元は遠江から三河に進出し、永禄元年(1558)に三河を平定し、駿河・遠江・三河を領する大大名となり、「街道一の弓取り」と言われました。1562年から遠江の国人たちが相次いで今川に反し、北の武田と結ぶ動きが生まれ「遠州忩劇」の時代に入りました。
天正2年(1574)、徳川氏と武田氏による第一次高天神城の戦いでは、徳川方の城主 小笠原氏助(長忠)が武田勝頼に敗れました。小笠原氏助(長忠)の家臣は徳川方についた西退組、武田方についた東退組に別れ、黒田義則や永田太郎左衛門などの侍は帰農し、現在の菊川市南部に住むようになりました。天正3年(1575)、長篠・設楽原の戦いで織田・徳川連合軍に武田勝頼は敗れました。徳川家康は武田方拠点の二俣城や諏訪原城などの攻略に乗り出し、諏訪原城攻めでは火剣山(菊川市富田)に徳川家康の本陣をおき、一ヶ月余りの攻防を繰り広げた後に諏訪原城を奪取しました。
天正8年(1580)、徳川家康は横須賀城に本陣をおき、武田方の高天神城を包囲するために高天神六砦 (小笠山砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村砦、三井山砦) と呼ばれる付城を築城しました。獅子ヶ鼻砦は現在の菊川市大石にあります。天正9年(1581)、第二次高天神城の戦いでは城主岡部元信以下数百名の城兵が討って出て玉砕し、高天神城は落城しました。翌年、武田氏は滅亡しました。
慶長3年(1603)、徳川家康が征夷大将軍に任命され江戸幕府を開きました。この地域の村は相給が多く、諸大名領、諸寺社領、幕府領、旗本領などが複雑に混在し、複数の領主によって構成されていました。諸大名領には掛川藩領、横須賀藩領、相良藩領、田中藩領、丹波篠山藩領などがありました。正保二年(1645)に本多利長が横須賀藩に封じられると、本多利長の兄弟で旗本となった本多助久が遠江国城東郡4500石を分与され、黒田家が旗本本多氏の代官を務めました。横須賀藩主 井上正就の兄弟で旗本となった井上重成は寛永二年(1625)に遠江国城東郡3千石を賜り、その子孫が月岡陣屋をおきました。
各村の庄屋 (名主) は年貢責任者の他に、村の行政や司法をまとめていました。
江戸時代中期には古事記や万葉集などの古典を研究する国学が勃興しますが、この地域を代表する国学者 栗田土満は賀茂真淵や本居宣長に教えを受け、国学・歌道を極めました。門下には袴田勝彦、野賀岐山などがいました。
幕末になり戊辰戦争が勃発すると、尾張藩の勤王誘引にしたがい、周辺の掛川藩、横須賀藩、相良藩は恭順しました。慶応4年(1868)、駿河府中藩が成立し、徳川家達が70万石で移封しました。
明治2年(1869)、静岡藩が成立し、徳川家達が知藩事に任命されました。徳川慶喜の身辺警護を務める旧幕臣 によって構成された精鋭隊はその任務を解かれ、静岡藩開墾方として牧之原に入植し、明治政府の士族授産事業の一つとして牧之原台地の茶園開拓に着手しました。新番組隊長 中條金之助景明、副隊長 大草高重他、旧幕臣の約250戸は牧之原に住みました。明治3年(1870)、旧彰義隊残党95名が開墾方として入植し、隊長 大谷内龍五郎が沢水加の山田家に寄宿しました。静岡藩公用人を努めた関口隆吉、小田信樹もこの地に移住し、関口隆吉は月岡陣屋跡、小田信樹は横地に住みました。明治4年(1871)、廃藩置県が行われ、関口隆吉は上京します。関口隆吉は三潴県(現在の福岡県)権参事、山口県令を歴任し、その後、明治19年(1886)に初代静岡県知事に任命されました。