嶺田用水が世界かんがい施設遺産に認定されました

こんにちは😊 朝夕の風にほんのりと秋の気配が感じられる頃となりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
さて、2026年8月21日、「小笠地域かんがい用水群」の一部として、嶺田用水が世界かんがい施設遺産に認定されました。世界かんがい施設遺産制度とは、建設から100年以上が経ち、歴史的・技術的・社会的価値のあるかんがい施設を認定・登録する制度のことです。義人 中条右近太夫が狂人を装って測量を行い、命がけで幕府へ直訴し、嶺田用水の礎を築いた伝承が地域に伝わります。 なお、江戸時代の嶺田村は横須賀藩領で、その村高は約2500石(正保郷帳2552.84石、元禄郷帳2552.84石、旧高旧領取調帳2576石)でした。義人 右近太夫の想いから始まった恵みの水は、400年の時を超えた今もなお、地域の命脈として留まることなく流れ続けています。
<井宮神社と嶺田用水の由来>
昔、嶺田の地は水源に乏しく常に日照りの多い土地柄でした。慶長十二年(1607)、徳川家康が鷹狩りにやってきた時、飲み水が濁っていることを憐れみ、村のはるか北にある奈良渕の水を引くよう命令しました。けれども具体的な計画もたてられないまま、この話も立ち消えになってしまいました。
義人ともいうべき人がいました。名を中条右近太夫といい、嶺田の農民でありました。日頃から日照りの被害を深く嘆いている一人でした。ある日、志をたてて人々を日照りの苦しみから救うことを決意し、用水建設にとりくみはじめました。けれども、水源とする奈良渕の土地は他の領主が支配し、容易に出入りできません。右近太夫は日常から狂人のふりをし、凧をあげたり、大松にのぼったり、床下をはいまわったりしました。人々は右近太夫を「凧狂い」と呼び、狂人だと信じていました。右近太夫はこうすることによって、他の村に侵入して土地の高低や距離を測量しようとしたのでした。
苦心数年の後、右近太夫は用水建設の計画を領主の横須賀城主に何度も訴えましたが、その願いはとりあげてもらえません。右近太夫は家族に罪が及ぶことを避けるために妻や子を離縁して一人で江戸にのぼり、用水建設を直接幕府に訴えました。幕府は訴えが徳川家康とのゆかりが深いものであることを理由にこの宿願をききとどけました。けれども右近太夫は越訴の罪をまぬがれず、正月二三日に刑場の露と消えたと伝えられています。しかし、その子孫は永々として世をつぎ、国京の名を今に残しています。
人々はこの嶺田用水にかけた右近太夫の徳に感謝し長安寺の近くに祠をたて、「井の宮神社」と名づけておまつりし、命日をご大祭の日と定め、毎年忘れることなく今日に至りました。以後嶺田用水は脈々として絶えることなく流れつづけ、今もなお、地域の唯一の水源として活動しつづけています。



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